碑文
「昭和の義民」山本虎雄は一九〇二年、青木村田沢に生まれた。
深刻な昭和恐慌が農民を塗炭の苦しみに陥れ、活発な農民運動を展開させるとともに、激しい弾圧を受けた時代。
一九二七年四月二十四日、長野県小作人組合連合会創立大会が開かれ、日本農民組合(日農)加入を決議するにあたり、上小地方組織化の中心的役割を果たした。
一九二八年、青木村青年会長となり、『青木時報』発行編輯印刷人を務める。紙面で、宝暦騒動や明治二年上田騒動を生存権擁護運動、大衆的政治闘争と位置づけて取り上げた。
同年四月十四日、上小農民組合連合会の創立に参加。五月には青木村農民組合を結成して組合長に就任し、村税不当賦課抗議など村民の要求を掲げてたたかった。
村を二分した小学校増築問題では、議論を建設場所に矮小化せず、男子補習学校を夜間授業にし教室の狭隘解消、軍国主義教育を進める青年訓練所の廃止、建設費などの義務教育費を全額国庫負担にすべきと主張した。「軍国主義教育反対」のビラは警察に没収されたが、ポスターを村内に貼り巡らして対抗し、村民世論を喚起して成果を収めた。
一九二九年一月の出初式で警察署長が「消防組の活動は,火災消火の役割だけでなく、赤い思想の火を消せ」と訓辞したことに端を発し、十一月から消防組自主化運動が始まった。年末には農民組合幹部や活動家が罷免されるなど不当な扱いを受けるも、「消防用器具・機械・法被は集落の財政で調達したもので権力の干渉を受けない」と主張し、翌年の出初式には警察官が取り囲む中を堂々と参加。警察の指揮監督下にあった消防組から村が支える組織であることを鮮明にした出初式となった。
一九二九年三月一日、上小農民組合連合会第二回大会において、事前検束され参加が叶わないなか副組合長に選出される。山本宣治代議士の「無産党代議士の議会観」と題した当日の記念講演は満場を熱狂させ聴衆を魅了したが、四日後の三月五日夜、右翼の凶刃に倒れる。上小農民組合連合会は十日後、追悼大演説会を開き山本宣治記念碑の建立を決め、翌年五月除幕式を行った。
一九三〇年、農民組合結成当初からの要求であった青木村営巡回産婆設置事業が実現し、一九六八年まで四十年近く続き、女性と子どものいのちを守ることに大きく貢献した。
この間、上小ならびに近隣各地で頻発した小作争議に何度も駆けつけ、応援・指導した。
一九三三年二月四日、「二・四事件」が起こり、上小地方ではタカクラ・テルほか井沢国人(浦里村)ら農民組合の主要な活動家が検束された。影響の広がりを恐れた権力は山本宣治記念碑の破壊を命令するが、別所温泉柏屋別荘旅館主
齋藤房雄氏の勇敢な機転で庭石として保存され、戦後の再建に結びつけた。
同年四月、衆望を得て青木村会議員に当選。
一九三五年、非常時体制を前にした中、産業組合専務理事に就任。
一九四〇年からの七年間は収入役に就く。満蒙開拓団募集の文書を棚上げし応じないよう村長に進言したと、今なお語り継がれている。
一九四六年、戦後いち早く日本共産党に入党。青木村農民組合を再建し、土地管理組合を創設して農地改革を進めた。
一九五五年より十六年間、村民の切望に応えて再び村会議員を務め、森林組合や農協の理事、農業委員などに就く。学校給食の脱脂粉乳を生乳に替え、老人医療費の無料化、村議会の宴会廃止などを実現し、民主化と生活向上に尽した。
一九七一年、別所温泉安楽寺脇に山本宣治記念碑を再建し、これを機に長野山宣会を設立。事業の重要な役割を担い碑文を揮毫する。後に同じ地に建立したタカクラ・テル記念碑の碑文も執筆した。
上小地方の農民運動を中心とした社会運動の全貌をまとめた『長野県上小地方農民運動史』の刊行会会長を務め、一九八五年の発刊を見る。
一九八九年二月九日、農民運動を展開し、大きな足跡を残した同志たちと、哀歓交えて長野山宣会の発展を語る山宣会規約改正委員会の席上、不帰の人となった。
「平成の大合併」によって小さな村は次々に消え去った。しかし、青木村の村民は困難はあっても自主自立の道を歩み続けている。幕藩体制下の農民一揆から続く山本虎雄ら青木村村民の不滅のたたかいの歴史と業績が、今に生き続けている証といえよう。
茲に有志相計り、碑を建て志を偲ぶ。